リベラルアーッ!

 先日、実際に学部生と話をしなければならない機会があった。

昨日も書いたけど、金にならない(と思うのよ)。にも関わらず、僕が受けた質問は企業や社会からどのような評価を得ることができるか、みたいなのが多かった。

このご時世、就職を気にするのはわからなくもなくなくなくなくない。

これな、これ。不安に思うならやめた方が良いかもしれない。それか、僕のようにひどく楽天的というか破滅願望があるというか、なんでも良いけど傍から見ると「墓場」でも楽しく過ごせる人であった方が良い。

流石に「墓場」の件は彼らに伝えなかったけど、まあそれは人によるだろうからね。

「逆に聞きたいんだけど、この分野が企業活動の中で具体的にどう役に立つのか教えてくれないか?そんなに評価してくれる企業があるなら僕も応募したいねHAHAHA!」

なーんて偉そうな事を言ってしまったのだが、これが正直なところかな。

 

まあ、評価というのがどの程度のものなのかは曖昧なんだけど、話の流れからして研究の実績を基に配属や待遇にどのような違いがあるか知りたいようだった。

採用面接の段階で話の種になるとか、直接的には仕事に必要ないが、プラスαとして役に立つ日が来るだろうという話ならわかる。わかりるよ、きっとある。

 

だから、はっきり言ったんだ「君が思い描いているような形では、絶対に役に立たない」と。

僕は「絶対」なんて言葉をあまり使いたくない。責任は取りたくないし。

でも、その時は後からがっかりするのが目に見えていたし、言わざるを得なかった(そんな大袈裟なことでもない)。

今思えば、この人は新卒採用についてもう少し調べたら良い。

 

まあでも、そんなに企業からの評価を気にするのなら、もっと「体系的」な学問をやるべきだという話もした。だってこれは所謂「学際的」な学問なんだ。キラキラ系なんだよ。

 

「有閑階級の嗜みのような学問さHAHAHA!」

なんて冗談を言うこともあるが、これも嘘ではない。

 

「体系的」というのもはっきりしないが、少なくとも会計や法などなど明らかに企業が必要とするスキルはあるわけだ。MBAもまだ目的は明確だなと思う。

 

さらには、企業で役に立つか以前に、研究をする上で必要となる「道具」を持っているかも重要。それも「体系的」な学問をやった方が良い理由だ。つまり、ずっとこの「学際系」にいると、視野こそは広がるが実際に研究、分析をするためのツールを身につける機会は少ない。

情けない話だけど、僕は大学院に来るまでその大切さに気が付かなかった。たぶん嘘、学部時代に勉強なんてしなかったと言った方が正しい。結局はしっかりとした分析手法を持たないために、いつまで経っても「勉強」から「研究」にステップアップできない。他にも原因はあるけど、まあまあ。

いや、何が言いたいのかって、一つの核を持つことが重要なんだと思う。視野を狭めないようになんて話は良く聞くけど、僕はそう思わない。

一つを深く掘り下げれば、他のことにも視野は広がっているわけだ。もしくは、他に目を向けた時、より良く理解できるようになっている。

 

こんな感じの事を話したのだけれども、実際のまとまらない会話の中で、どの程度伝わっただろうかともやもやしていた。

 

今、禁煙を始めて9時間くらい経った。キーボードをバチバチ叩くと気が紛れる。

 

 書き終えたら達成感で吸うと思う。

ナーバス

「君が大学で学び、研究している分野のソーシャルインパクトは何?」
「そんなものはない。ソーシャルインパクトとか洒落た言葉を使うなおたんこなす」

学部や修士を終えたレベルでこの分野が金になるとははなから思っていない。
かと言って博士に進んで研究者になるつもりもない。(とんだ自惚れ屋ですな!)
そういった意味では、ソーシャルインパクトなど考えたこともないわけだ。(それは甘えですな!)
尤も、金と所謂社会的意義はイコールではないわな。勿論、その分野は社会の役に立つ。
結局は何が言いたいのか、僕は自分が面白いと思った、気になった事を自分の気が済むまで勉強してみたかっただけなのだ。

しかし、たとえゆるふわ修士でも、研究をする以上は何かしらの「意義」を見出す必要があるらしい。
誰も読まない修士論文に、それが社会の中でどのように位置づけられるのか、考えなければならないのだ。
まあ、そんなものはちょっと考えればいくらでも書ける(はず)。問題はそこじゃないんだな。

建前と本音じゃないけど、僕にもそういった柔軟さが必要になってきている。
「好きだからやっているだけだ、お前に何の関係があるゴートゥーザヘル」とは言えない場面が増えた。

話は戻って「ソーシャルインパクト」だの「何の役に立つのか」だの「金」「金」そして「金」
「ねえ、それって何の役に立つの?」とこれまでに何度聞かれただろうか。
「何も。何の役にも立たないよHAHAHA!」と言って上げるのがマナーだ。
聞く方もその答えを知っているし、待っているのだ。
そういった悪意に疎かった頃、居酒屋で必死に語った。

思い出すだけでムズムズするのはなぜだろう。
「肩の力を抜けよ」という言葉が聞こえてくる。

十八番

「君ねえ、コミュニケーション能力だよ」

「はい」

「そこだよ。そこで何か言うんだよ。何か面白い話ないの?」

「そうですねえ」

「うん。コミュニケーション能力。頑張ってよ」

「はい」

「だーかーらー」


ああ、これじゃない。諦めが肝心か、見極めが大事か。

面白い話ってなんだよと思ったが、まあ「鉄板のネタ」というのは必要なモノかも知れない。

子供の頃は、おっさんたちが何度も同じ話をするのを鬱陶しく思った。

「その話、もう何回も聞いてるから」

その言葉で何度も父と喧嘩になった。

しかし、その「十八番」が所謂「コミュニケーション」には有効なようだ。

新しい話題→いつもの→結論(オチ)

まあ、確かにね。いつものを挟むことで、自らの経験に引き寄せて話を理解しているわけだ。

リアリティがあるよな、恐らく。

そうかそうか。

いや、それで父の「十八番」を思い出したのでここに書こうと思って。


新卒で大手企業に入社した叔父、祖父母もそれは喜んだ(だろうな)。

70年代だか80年代だか知らないが、大手に入れば安泰の時代かな。

しかし、叔父は研修一日目で会社を辞めた。

自衛隊に体験入隊だったか、何だか忘れてしまった。

上裸、裸足でグラウンドを走らされたそうな。

スタートしてから半周、叔父は服と靴を回収しそのまま姿を消した。

「見極めの早さもひとつの才能だわな」と話が終わる。


まあ、本人の人柄を知っているから余計に面白いのだろうけど。

「お前もそんなマゾヒストにならずに、他の手を考えたらどうだ」

そうかもなと一瞬思えるあたり、こういう話は説得力を生むのかな。

明日も面接だ。

隙間

先週のこと。近くに用があったので、丸善に立ち寄った。

特に目当てがあるでもなし、背表紙を眺めてもタイトルが頭に入らなかった。
というのも最近は、書店を訪れると自室に積まれた大量の未読本が頭をよぎる。

それに、今は文学よりも論文を読むべきという思いがあるのだろう。
ああ、なんということだろうか。いつだって意気込みだけは一流なのだ。
そんなこんなで、書店を楽しめる状態にないことは行く前からわかっていた。

まあ、来てしまったものは仕方がない。
申し訳程度に自分の専門領域の棚を通りすぎようとしていた。
特に研究テーマとしているあたりで一応立ち止まる。
すると、その中の五、六冊がごっそりと消えていることに気が付いた。

なんだか急にがっくりときてしまった。
背もたれのない椅子に座り込み、気を失うように十分程眠った。

手水と手水

僕の名前は大概読み間違えられる。
両親は無難な漢字を選ぶも、神主の一声で変わってしまったという。
別に不満があるわけでもなく、寧ろ気に入っているくらいだ。
読み間違えをやんわりと正して始まる会話もあれば、すんなり読めた理由を問うこともできる。
一つ難点を挙げるとすれば、外国人にとっては面倒な発音であることくらいだろうか。
それにしたって、熱心に発音を練習してくれる人がいたり、面倒だからニックネームを考えてやるよという人がいたり、人それぞれで面白い。
それもこれも、流行りの名前には到底太刀打ち出来ないものだろうが。

ひとり、初詣をしながらそんなことを考えていた。

「神社」「手水」「神酒」「巫女」などなど、読み難い漢字が多い。
以前、「手水」を「てみず」と読んだ僕に「ちょうずだよ恥ずかしいなあ」と窘める人がいた。
どちらでも良いんだと、その時は自信を持って言えなかった。部屋に戻り、辞書を開いて自分にも相手にもがっかりしたことを覚えている。

「お神酒をどうぞ。おめでとうございます」と声をかけられ、「神酒」という漢字が浮かぶまで数秒を要した。
何か無作法な振る舞いをしなかっただろうかと思い引き返すうち、参道のど真ん中を歩いていることに気が付いた。

な余りにな

なんだかパッとしない年の瀬ですよ。

研究が全く進まないとか、仕事が見つからないとか、如何にも当世風の悩みを沢山抱えたアンニュイな青年なんですよ僕は。
でもまあ、それは大した問題ではないと思います。
研究も職探しも、まだまだやるべき事が沢山あるわけで、つまり手詰まりの状態にはないのです。ああ、やらなきゃならないなあ、という悩みというか憂鬱というか、その程度のものかなと。

じゃあ、何ですかそのパッとしないってのはと。

結局は思ったことをうまく言葉に出来ない事が問題なんですよ。こうやって書き始めた時点でもうなんか違う。全然違う。書いたものを見ると全然違う。こんなものを書いて見せびらかしたかったわけじゃない、と。

いや、それなら何度も書いては直せばいいじゃないですかと。ああ、そうですか僕もそう思います。じゃあそうしましょうさようなら。良いお年を

九鬼周造「風流に関する一考察」 より

風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって「風の流れ」の高邁不羈を性格としている。

うおおお!そうだそうだ!

ただしその破壊性は内面的破壊性を意味しているのであって、社会的勤労組織との外面的形式断絶を意味するものではない。かえって社会的勤労組織そのものの中に自然的自在人を実現することこそ現代には真の風流であるともいえよう。

・・・。